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自叙伝

幹部ミーティングが〝英才教育〟に

プライベートでは、28歳で結婚をし、息子1人と娘2人の5人家族で、温かい時間を過ごせるようになった。

奥さんは俺がコンテストへ出場している時代からサポートしてくれているから、心から信頼できる。

それで言いたいことも言えるから、家では息子がもう1人いるような存在なんやと思う。

奥さんに感謝しているのは、一緒になってスタッフを育ててくれたこと。

スタッフが4人しかおらんかったときに、そのうちの3人が保護観察中ということがあった。

 

 

営業中にけんかをすることもあったが、それでも面倒を見続け、毎日弁当をつくってくれた。

あらゆる物事は、陰に支えてくれる人がいてはじめて成功するもんやなと俺はつくづく思った。

おやじにも感謝は尽きない。

おやじは、あれだけ反発して心配をかけたのに、俺を受け入れてくれた。

そして最期は打ち解けることができたと思う。俺ら兄弟が幼い頃には、休みになればスキーやスケート、キャンプなどに連れていってくれた。

また、老いた祖父母の面倒見も良く、就寝中に見回ってはそっと布団をかけるという優しさがあった。

逝去してからも、こんなことがあった。ある時、俺の息子が生後3カ月で脳性髄膜炎になった。

検査のためとはいえ、髄液を取ることは大人でも痛いらしく、泣きじゃくる姿にはいたたまれない気持ちになった。

また、医者は後遺症が残ってしまう可能性があると言う。

俺はコンテストに向けて猛練習のまっただ中やったけど、息子が心配でどうしようもなくなり、ある日の練習終わりにおやじの墓を訪ねた。

確か、夜中1時くらいやったと思う。

「なんとかせいや」と俺はおやじの墓に向かって言葉をぶつけ、ビールを置いた。

それから車がある方へ歩いて戻ろうとすると、ルームランプがぼんやり光って、車内におやじがいるのが見えた。

遠目だったが、こっちを見てニコッと笑っているのが見え、そして消えた。

俺は直感的に「ああ、これで息子は助かる」と安心することができた。

幻やったけど、おやじが助けてくれたんかな。

恩といえば、兄にも感謝している。

兄はおやじ譲りのまじめな性格で、銀行に勤めていた。

俺が店を出すとなった時には、躊躇することなく連帯保証人の欄にサインをしてくれた。

それも、一度や二度ではない。自分も住んでいた実家まで担保にしてくれて。

本当に、この恩は一生忘れません。その後、兄は銀行を辞めて、おふくろと一緒にお好み焼き屋を継いだ。

親孝行してくれて、心から感謝している。

ほか、おじいちゃん、おばあちゃん、親戚、家族にも感謝している。

いつも気にかけ、応援してくれたから今がある。そんな恩に報いていくためにも、俺は変わらずに熱く生きていこうと思う。

 

 

さて、話を元に戻そう。俺はスタッフが少ない頃からガッチリと呼吸を合わせるべく、毎日のようにミーティングを取った。

店の2階は自宅兼社員寮だったから、皆で食事をする部屋に営業後集まった。そこでは毎晩のように「どうやって100人にするか」を話し合った。

酒盛りに近い状態で、最後は「100人にするんや」と俺が吠えて解散するというのがいつもの流れだが、毎日続けると想いが伝わり、心身ともにピタッと一致していった。

奥の部屋では、奥さんと3人の子どもが寝ていた。

毎晩ワイワイと酒を呑んでいるから、子どもらもよく夜中に目を覚ます。

そしてトイレに行くとなれば、ミーティングしている横を通ることになる。

たまに息子が、「お父さん、まだやってるんか」と呆れながら聞いてくる。

すると俺は「スタッフを100人にする作戦会議や」って答えていた。

息子が小学校4年生のとき、たまたま学校の連絡帳を見る機会があった。

そこには頑張って欲しいこととして「宿題をちゃんと出すようにしましょう」と書いてある。

しゃあないなあ、俺もそうやったし。

その次の項目に「頑張ったこと」として、「優勝するために、毎朝ドッジボール大会の作戦会議をやっていたこと」と書いてある。

ああ、俺らがミーティングで作戦会議とか言って、わいわいやっていたことを横で聞いとったんやなこいつ、と。

ある意味、英才教育やったんやなと思う。だからうちの子どもらおそろしいほど頭が回る方やと思う。

幼稚園、小学校のときに先生が、「まるで大人と話しているみたいです」と驚かれるほどやったから。