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自叙伝

「日本一になったる」と決心(下)

コンテストは年に5、6回、様々な団体の主催で、行われていた。そのうち理容技術コンテストは都道府県の予選があり、勝ち抜いた代表が全国大会に出場することになっていた。
俺は様々なコンテストに挑戦したが、最初から7連敗を喫した。だが、以後は8連勝し、全国大会に出場することができた。この全国大会に、両親は旅行を楽しむように、遠方でも駆けつけ、応援してくれた。これまで散々心配をかけてきたが、これで少しばかり親孝行になるのかなと嬉しく思っていた。

 

コンテスト出場時には、アクシデントに見舞われることもあった。当初は髪の色を明るくしてから、ブリーチをして、色合いを出していくという算段で進めるつもりでいたが、ここで調合を間違えてしまい、髪が真っ黒になってしまったのだ。「もうあかんわ」と諦めの気持ちがつい言葉に出てしまったが、ここで以前からコンテストを共にしてきたカットモデルさんに「今村君、ここまできたらいくだけいこう
や」と励まされた。そうして気を取り直して、シャンプーをした後に、ヘアアイロンで熱を入れたら、髪の色が飛ぶという幸運が起こった。そして髪は、やや暗めのいい色合いに。これが高評価を得ることになった。

結果、初の入賞を果たし、先述の7連敗を脱することができたのだった。

 

俺がコンテストに挑戦しはじめて8年目、まさに開催が直前に迫る頃になって、おふくろから「おやじが胃がんになった」ということを知らされた。振り返ってみれば、以前からどこかしら顔が黒ずんでいることには気づいていた。「これはふつうの病気とちゃうぞ。もしかしたら、もうアカンのんとちゃうか」と悪い予感があったのだ。両親は少し前にがんであることを医師から聞かされていたが、おやじは「大会前やし、心配するから、伝えるな」とおふくろを口止めさせていたようだ。そんな約束を破るくらいだから、いよいよ厳しい時期に突入したのだった。俺はそれ以来、練習時間の合間に病室へ足を運んだ。激しい痛みを抑えるためにモルヒネを投与され、おやじは安らかに眠っていることがほとんどだった。父子の積もる話もあったが、その願いが叶うことはなく、わずか2ヵ月でおやじはこの世を去った。

 

不謹慎と言われるかも知れないが、実はおやじが死ぬ間際に、コンテストへ出品する作品のシルエットがパッと浮かんだ。俺は「おやじが死ぬかも知らんときに、自分はなんちゅう息子や」と自分を責め立てた。だから、おやじが逝去した時には、今回はコンテストへの出場を取り止めようと考えていたのだ。だが、おふくろはコンテストへ出場するよう背中を押してくれた。おやじの想いを感じていたからだろう。その気持ちに応えて、俺はコンテストに全神経を集中させた。結果、この時は全国7位で入賞となった。
さらに翌年は、全国で4位となった。この時はコンテストで「仕込み」と呼ばれる前日作業を行っていたときに、わずかにはさみを入れ(髪を切り)過ぎてしまった。

もう取り返しがつかない。この時のカットモデルは、何年も苦楽を共にしてきた間柄だったが、別のモデルを立てるしかない。このままでは勝てないから俺はひとしきり頭を下げた。そうしてモデルは納得してくれて、別のモデルに衣装まで貸して協力してくれた。結果の陰には、そうしたストーリーがあったのだ。さらに翌年は、パリで開催された世界コンテストへ出場。ここでは「JAPONYoshimiImamura!」との会場アナウンスが流れた。

せまい日本での勝ち負けに、一喜一憂する必要はない。日本代表として堂々と競技に臨もうと素直に思うことができた。そして、なんと世界2位に輝くことができたのだ。

年が明けて11年目の挑戦では、すでに気力も尽き、情熱が薄れていた。そして、コンテストは予選で敗退。ついに日本一にはなれなかった。

技術を磨いて10年。誰かに教わるという環境には恵まれた方ではなかったが、「我流でも、突き通せば自分流になる」ということを、俺は身をもって知ることができた。