BLOG
ブログ

  • 自叙伝
    これからも挑戦あるのみ(上)

    かつて俺は、シャンプーしか出来ない見習いの時に「コンテストで日本一になる」と決めた。

    そして独立する時には「15年間でスタッフを100人にする」との目標を掲げ、達成した。人には失敗も成功もある。それでも、根拠がなくとも大きな夢や目標を掲げる。それが「遠く(将来)に石(夢や目標)を投げろ(決めろ)」だ。

     

    どうか現況に一喜一憂せず、大いなる夢に向かって日々前進してもらいたい。
    俺自身は経営と別に、プライベートで「トライアスロンで世界大会へ出場する」との目標を掲げて取り組んでいる。

     

    はじめはマラソンからはじめた。それはある時、以前からマラソンをしていた知人が「今村さんの年齢で、初マラソンで4時間30分を切ったらすごい」と言ったことが発端になった。反発心が目覚め、「だったら4時間15分を目標にしてやろう」と挑戦することにした。最初は、3キロをゆっくり走るのがやっとというところからだったが、8カ月にわたって我流で練習した。練習の基本はシンプルで、前日に決めた距離を何がなんでも走りきるというもの。足が痛くても、息が苦しくても、腹が痛くても絶対に止まらない。それだけだった。

     

    ホノルルマラソンを初挑戦したときの記録は4時間16分48秒。あと少しだった。悔しさをばねに、「次は4時間を切る」とさらに高い目標を宣言、そして翌年もホノルルマラソンに挑戦した。この時は35キロ辺りから苦しくなり、あきらめそうになった。でも、80人以上のスタッフから応援メールをもらっていたから、「やつらに背中を見せないと、カッコ悪い」と奮起することができた。

    結果は、3時間54分28秒。宣言通り目標を達成した。

     

    この時に一つ、感動したエピソードがあった。俺とともにマラソンへ挑戦したSPCの経営者仲間が14時間以上かけて完走したのだ。約2万3000人いる参加者の中で、彼は最後尾から5番目の順位だった。おそらく途中からは、前にも後ろにもランナーが見えなかったと思う。しかし、それでもあきらめず、逃げずにゴールをした。経営とは直接関係しないと思いがちだが、こうした熱意がほかの人を熱くさせ、いい
    空気が生まれていく。だからこそ、誰がどうであれ、あきらめずに挑戦することが大事なのだ。

     

    2016年7月に、トライアスロン世界選手権の出場経験をもつ溝端祐一氏(Unity代表)との出会いがあり、俺はトライアスロンへの挑戦を開始した。同氏にはパーソナルトレーナーをお願いして基本練習に励んでいる。

    我流だったら、直面する苦労や悩み、葛藤も自分で乗り越えなければならず、それゆえに乗り越えた後には充足感もある。また、やり続ければ自分流になるとも考えていた。だが、美容を含めてあらゆる業種では、基本形を大事にする。

    俺も我流であと一歩のところまで上り詰めたが、結局は基本形を正しく覚えておくことが、いざというときに優位点となることに気づいた。だからこそ、いまはパーソナルトレーナーに教わることにしたのだ。

    同氏はトレーナーでありながら現役選手としても活躍していて、自分で努力をしながらやってきた人物だ。トレーニング法も、考えに考え抜いて編み出し、確立させてきた。

    この根幹にある「能力に恵まれなくても、基本形に徹して走ることが大事」という考えは、ビジネスにおいても通じることであり、経営者として多くの学びを得ることができたと思う。

    続きを読む
  • 自叙伝
    業界を変えていくために

    100人を達成した創立15周年の記念式典で、俺は「5年後にスタッフ200人を目指す!」と一人で気勢を上げた。その瞬間に見せた、居並ぶ幹部の「もう勘弁して」という表情はよく覚えている。

    冗談ではなく本気だったが、それも即座に察知してくれて、見事に創立20周年記念式典の8ヵ月後には、なんとかスタッフ200人を達成するに至った。

    俺は単に、人数を増やすことにていくことだけがすべてとは考えていないが、どうせ仕事をするなら、人生におけるかなりの時間を割くのであれば、義務や生活のためではなく、仕事で目標達成することを利用して、生きること自体を愉しんでほしいと願っている。

     

    この先については、人口減少や働き手の不足を勘案して考えていくと、現状のままで維持できるものではないと考えている。これは15年前から察知していて、常に最新の情報やシステム、サービスを集めては検討し、自分なりに判断してきた。そうして今、取り組んでいるのが「ビューティーモール(美容の市場)構想」と「店舗管理の専門家集団・グランドキーパーの育成」の2点だ。

     

    それぞれの詳細は第2部に譲るとして、ここでは概略のみ記しておく。前者について、アイムは2007年に第2のブランドとして「sala」を立ち上げ、トータルビューティーをご提供できる店舗を展開してきた。今後はこれを強化し、専門性を高めていくことで、名実ともにビューティーモールといえるサービスメニューを揃えていく。さらにこの展開は、生涯美容師として働くスタッフにも、さまざまな働き方を選択できる幅を広げるものであり、最終的には自分らしい未来予想図を描きながら終身雇用ができる体制をつくっていきたいと考えている。

    後者については、2017年に立ち上げた経営企画室が中心となり、ここのメンバーがグランドキーパーとして、各店舗の求人や集客、店舗管理といったマネジメントを専門的に行うことを構想として描いている。これができれば、ひたすら美容の技術だけを磨いてきた美容師が、技術とお客様へのサービス提供に集中できる。

    これは業界でも前例のないことであるが、新たな風を吹き込む挑戦がはじまったといえるだろう。

    続きを読む
  • 自叙伝
    飛び立つ時は向かい風。SPCのトップに立つ(下)

    正直言って、俺はこれまでいろんなことを否定してきた。

    実はそれが、結果的に自分で自分の首を絞めてきたことに、この当時ようやく気付くことができた。だけど大人になって表面でそれを認めたふりをして逃げるのは俺らしくない。心から認めることが、心の安静につながることを発見した。

    損得、勝った負けた、なんでやねんという感情。それらが渦巻くなかで、人生って終わっていくのかもしれない。だからこそ「損得」「勝ち負け」「不合理」に負けない自分づくりが大事なんやと思う。感情が揺れ動いた時、損得に負けてないか、勝ち負けに負けてないか、不合理にやられてないか、というようなことを判断できるようになる。それを時折自分で問うと、コントロールしやすいんじゃないか。戦争はなぜ起こるのか。これも突き詰めていくと、結局「損得、勝ち負け、不合理」に行き着く。そういう概念をSPCで活動しながら気づくことができた。

     

    そして理事長時代は、できる限り仲間と過ごし、語らう時間を大切にした。美容業界は、アイムが100人を達成した2003年ごろから取り巻く環境が厳しくなり、淘汰がはじまっていた。人間の体でいえば、薬を飲めばなんとか治るという時代がとうに過ぎ、体質を根本から変えていかないと生き残れない時代に突入しているのだ。

     

    SPCは経営者が集っているから、そうした話題にも敏感ではあるが、それでも具体的に対処する一手を打つこともままならず、悩みを抱える仲間が当時も少なくなかった。だから俺は、全国各地に赴き、経営者である仲間の一人ひとりと語らっていった。

    任期の2年間で、俺は「全国13の地方統括本部、47都道府県をすべて回る」と宣言したいた。そして、有言実行してみせた。YouTubeにも記録が残っているが、任期の最終日である2013年12月31日には、神奈川の地で多くの仲間とともにカウントダウンをして、最後の一瞬までやり抜いたことは忘れ得ぬ思い出である。

     

    組織としては、言いたいことがあったら言える雰囲気にしていきたいとも考えた。
    やんちゃなやつを集めて言いたいこと言わせていたら、ある若手の経営者が先輩の批判をしはじめた。それで俺が「ほな、その先輩に直接言えや。今からその先輩のところに行こう」と彼をその先輩のもとへ連れて行き、「今、俺に言うたこと全部言え」と言うと「いやぁ、ちょっと」と口ごもってしまった。「ほな俺が代わりに言うたるわ」と脅したら「いやいや自分から言います」とぼそぼそ言い始めた。

    先輩はむちゃくちゃ怒った。「そやけど、あんたも言われて仕方ないところはありますよ」と口を挟んだら、お互い言いたい放題に。それでも思っていることのすべてをお互いが出し切ったから、あとはその2人で飲み直していた。そうやって常に風通しをよくしておかないと組織というものは腐ってしまう。

     

    また、各地を回って出会った若手の経営者には、「おまえがやらな誰がやるねん」と期待の言葉をかけていった。謙遜する人、笑って済まそうとする人もいたが、どこかしら「そうかな」とその気になってくれていると思う。ちょっとしたことではあるが、その気になる人間が一人が増えると、徐々に組織が活性化していく。そして全体の士気や意識が向上していくのだ。

     

    一つ厳しいことを言えば、近年はサムライみたいな奴がずいぶん減ってしまった。
    SPCは自分の商売にとってプラスになることだけを教えてくれる場でも、何かがもらえる組織でもない。もっと高い志を持って、切磋琢磨できる仲間が集う場になっていくよう、自分も挑戦をし続けていく決意だ。

    続きを読む
  • 自叙伝
    飛び立つ時は向かい風。SPCのトップに立つ(上)

    どんな事でも、目標を決めなければ人は成長しない。そして、どんな組織でもトップを目指すべきだ。俺はSPCという組織に属した。だから、トップに立つと決めた。

    SPCのトップとは、理事長のこと。そして、おやじが亡くなった54歳を期限にした。
    理事長は基本的に、全国に13ある地方統括本部の会長経験者が選挙で選出される仕組みになっている。選挙のタイミングを考えると、俺が決めた「54歳までに理事長に就任する」ことを実現するには、50歳までに自分が所属する関西統括本部の会長に就任しておく必要があった。

    もともと生意気な俺だったが、ギリギリの50歳で会長に就任することができた。

    会長の任期を終え、いよいよ理事長選挙に立候補する意思を示す時期を迎えた。俺はいつも「理事長を目指す」と口にしていた。だから、周囲も俺の意思をよくわかっていたはずだ。だが、先輩方からは「今回(の理事長選挙の立候補)はなしや」と突き放された。だから自ら、「俺が出ますわ」と手を挙げることにした。

    その後は、いろんな事が巻き起こってくる。選挙とは、人を巻き込み、巻き込まれる、組織での一大イベントだ。涙あり、笑いありの濃い日々が展開されていった。そうして、いろいろな仲間の支えもあって、自分が決めた通り54歳で理事長に就任することができた。

    2011年4月18日、ウェスティンホテル東京で行われた春季全国大会にて、俺はSPC第26代目の理事長職を拝命した。

    発表したスローガンは、「継承・変革・革新〜飛び立つときは向かい風〜」。

    この時は東日本大震災の発生から間もない時期であり、この時に理事長職を受けるという重責を大いなる決意に変えて出発した。

     

    理事長就任に当たり、基本方針として「損得・勝ち負け・不合理に負けない自分作り」を掲げることにした。
    誰だって目の前に、損になる方か、得になる方かを差し出されれば、得になるほうを選ぼうとする。SPCでの活動は無償だから、ビジネスにおいては損とみることもできる。だから自分本位で本業に取り組む経営者もいることだろう。

    だが、そうした姿勢を取る仲間がいざという事態になった時、誰が助けてくれるだろうか。対して、損得に負けない自分をつくれば、困った時に応援者が現れ、サポートしてくれるはずだ。また、商売では売上、利益といった数字が厳然と現れ、明確に勝負がつく。それで自分が卑屈になったり、自分が勝っていると優越感を覚えたりすることもあるだろう。

    しかし、肝に銘じておきたいのは、厳然と現れる勝負は単なる現象に過ぎないということだ。だから、相手と自分を比べて一喜一憂することは愚かだ。大事なことは、自分自身が成長しようとしているか、常に努力できているかを問いただして生きることだ。

    そして、不合理と思えることがこの世の中にはたくさん転がっている。

     

    しかし、すべては心の持ちようであり、いくらでも変わる。 同じ状況が起こったとしても立場が変わり、見方を変えれば、それが逆転することもある。不合理と思えば否定の感情が生まれる。だから、それら否定の感情を乗り越えていくのだ。

    もちろん人間は感情の生きものだから、一瞬一瞬に喜怒哀楽が沸き起こる。

    これも肯定(喜・楽)と否定(怒・哀)に分けられる。先の話であれば、不合理を目の前にして、自分自身がどうであれ肯定的な感情を持って取り組む事ができれば、その先には喜びと楽しみが待っている。一方で否定的な感情を持って取り組めば、たとえ同じように事を為したとしても、その先には怒りや哀しみの感情に影響されて幸せとはいえない時間を過ごすことになる

    続きを読む
  • 自叙伝
    一時の成功を捨て、「自分流」で目標を達成(上)

    いかにしてスタッフを100人にするか。達成するその日まで、俺はひたすらもがいていた。そして先述の通り100人、200人のスタッフを持つ経営者の成功パターンを真似てみることにした。具体的には、これまでと比べて価格を下げた美容店をオープンさせた。
    この店は清々しいくらい、一気にお客さんが増えた。これまで自分がやってきた既存店の売上も、わずか一年で追い抜かれた。こうして店が繁盛するのは嬉しいが、なんだか虚しさが残る。「このビジネスモデルなら、誰でも成功する。それなら、わざわざ俺がやることはない」。そう思い立って、俺はこのビジネスモデルでの営業をやめ、従来自分がやってきた既存店のやり方に戻した。

     

    また、この時期まで俺はお客様に理容・美容とも提供していた。だが、「俺は美容を展開する」と決めて、理容はやらないことにした。1軒だけ理容店を残してしまうと、働くスタッフが会社に取り残されるような感じがして、良い気がしなかったからだ。だから、お客様には、誠実に「理容はもう辞めます」と宣言をし、地元ホテルでお客様に「ごめんねパーティー」を開いて頭を下げた。

     

    アイムでは当時、他社が取り組んでいなかった、
    ①内装費に費用をかける
    ②一ブランドで宣伝を効率化する
    ③一パッケージで店のシステムとサービスの質を高めることに力を注いでいった。

    詳細は第2部に譲るが、①については「内装費は最小に抑える」という当時の常識を覆すように、あえて逆をいくことにした。お客様が一目で「カワイイ」「素敵」と思えるような空間演出にこだわって、当時の一般的な店の2倍超の費用を投じた。これを単に内装費と捉えればそれまでだが、お客様の反応やクチコミでの広がりを見れば広告宣伝費と捉えられる。そうした思考の転換が大事なのだ。

    ②については「ハンコを押したような店」という表現をよく使って説明した。当時は各店舗で広告や宣伝を打つのが一般的だったが、それを一つのブランドで捉えて展開した。そうすれば、当時主流だった新聞広告やチラシ、リーフレットなどを各店共通で大量印刷し、1枚あたりのコストも大きく下げた分だけより多くの人へリーチできるようコストを効率化することができる。

    ③も②と同じく、ハンコを押したような店の展開を前提とするが、1つの店で成功
    事例をつくり、それをパッケージにして同じように他店で展開していくというイメージだ。

     

    ブランド、席の配置、提供するサービスメニュー、営業するシステムなど、すべてが成功したものであれば、他店でも成功することは言うまでもない。これは新店であっても同様だ。また、他店のスタッフが応援で移動しても、違和感なく営業ができる。
    美容室は人件費こそ利益を左右するファクターだから、客数にあわせてスタッフを効率的に配置することが重要だ。アイムはそれができたのだ。

    続きを読む