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自叙伝
- 「日本一になったる」と決心(上)
しばらくして、大阪で行われていた理容技術を競うコンテストを見に行った。一番後ろから眺めていると、「俺が生きている理容業にはこんな世界があるんや」と度肝を抜かれた。この時に優勝したのは神奈川代表の理容師。舞台で表彰されている姿に、俺はこの人になろう、つまり日本一になろうと決めた。当時はシャンプーしかできなかったけど。
振り返れば、俺は周囲の環境や他人のせいにして生きてきた。そんな生き方は楽に思えるが、結局は自分の責任から逃げているだけ。それはわかっていた。そこでちょうど「なにくそ」と思える出来事が起こったから、おれは反発心で練習をするようになった。技術がない自分と真正面から向き合い、「日本一になる」という目標を立てて、一切逃げずに練習すると誓った。
「10年以内に、日本一になる」。
俺は、期限付きの目標を定めた。最初は見習いで店ではハサミを握ることができない。だから、家へ友達を呼び、モデルとして練習台になってもらった。おふくろが洗い物に使う瞬間湯沸器でシャンプーをし、頭に浮かんだスタイルに仕上げていく。これを盆や正月を除いて毎日、休まずに続けた。やがて店で練習を許されるようになり、営業後には時間を忘れて練習に臨んだ。途中、働く店を変えることにしたが、新しい店でも寝食を忘れるくらい集中して毎日練習をしていった。すると、そのうち過労から身体が悲鳴を上げるようになる。それが積み重なって、ついには十二指腸潰瘍で倒れた。はじめは下血、そのうち胃に血がたまって吐血、そして最後は貧血になるというくり返し。それでも意識がある限りは練習をしつづけて、そのうち気を失って倒れるという感じになっていた。
そうして、救急車で運ばれた回数は10年間で7回。身長が176センチでがたいは良い方やと思うが、体重は48キロ台まで落ちたこともあった。病院では、輸血とともに、止血と潰瘍の薬が投与される。この点滴を10日ほど、長くて2週間ほどやっていればウソのように病状が回復する。すると、すかさず公衆電話でモデルへ連絡を取り、病室で練習を再開した。そのうち、同室の患者から「ドライヤーの音がうるさい」と苦情を言われ、仕方なく屋上で、洗濯機のコンセントを借りてドライヤーを使い、練習していった。
真剣な姿、熱い想いは人を動かす。一緒に働いていたスタッフも、気がつけば練習を手伝ってくれるようになった。練習中は、モデルのシャンプーやタイム計測、道具のセットをやってくれた。横になって仮眠を取るときには、そっと布団をかけてくれた。さらにコンテストの本番では、皆で「以心伝心、鉄の意志、今村意仁ここにあり」と書かれた横断幕を掲げてくれるようになった。過去がどうであれ、本気でやったら協力者は現れる。そして、人がついてくる。俺はこの経験を通して、そんなことに気付くことができた。
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自叙伝
- 生きるために理容師の道へ
訓練所をクビになって数カ月の間は、クリーニング屋やらテキ屋やらでアルバイトをして生活した。夢とか目標のようなものはまったく持てず、ただあてもなく働いていた。そしたら、住んでいるのが壁のうすい長屋やから、壁越しに「あの子まだちゃんと働いてへんのか」とか隣人の話し声が聞こえてくる。いつまでも親にメシ食わしてもらうわけにはいかへんな。そう思って、俺はある理容室に住み込みで働くことにした。この時、17歳。
その店は、距離にして家から500メートルほどしか離れてない、ごく近所にあった。
見習いになったといっても、まだ仕事の面白さはわからんかった。だから仕事が終わったらパチンコ屋で散財して、銭湯に行って、向かいの中華料理店でラーメン食べて、寝るという生活。もう破れかぶれやった。店の前を同じ年頃であろう修学旅行生の一団がバスで通ると、まあ、いきいきとした姿が車窓ごしに見えて、気分など良いはずもない。むしろグレますわね。かたや白衣を着て負のスパイラルに陥った生活を送っている自分がいるわけやし。やりきれないことこの上なしで、まだ周りのせいにしてやり過ごしていた。そんなある日、俺の心に火がつく出来事が起こった。以前からそりが合わなかった先輩の理容師と、ふとしたことから言い争いになった。ふつうは後輩がどこかで折れるところやろうが、この時は頭に血がのぼって、こてんぱんに言い負かしてやった。
それでも、幼い頃から喧嘩両成敗という言葉は知っている。少し落ち着いてから、周囲はお互いに謝って、場を収めるようにするんかなと思ってた。でも、当時は俺がまだお金も稼いでいない見習いやったから、分が悪い。店主に頭を押さえつけられて、「謝れ」となじられた。「悪いことしてへんやないか」と俺が言い張ったら、返してきたのは「おまえは仕事もできひんくせに」と一言。これがめちゃめちゃ悔しかった。でも同時に俺は、「仕事さえできたらええんやろ」と心の中で叫んだ。反発心が目覚めた瞬間やった。この出来事がなかったら、今の俺はない。悔しい、つらい、破れかぶれの生活といったマイナスの気持ちが、反発心で一瞬にプラスへと切り替わった。ここで俺は、技術者として道を究めていくと心が定まった。
その翌日には、中古車屋へ行って、廃車のシートを譲ってもらった。それを鉄工所へ運んで足をつけてもらい、家へ持ち込んだ。これで家に練習部屋が完成。それからは近所の友達を呼んで、ハサミでチョキチョキした。謝れ、と言われたことを思い出すだけで悔しくて、悔しくて。なめんなよ、今に見てろ、という気持ちを持ち続けて、毎日のように練習を重ねていった。
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自叙伝
- 中学生で金銭的に自立
商売のやりとりをいつも見ていたからかも知れない。俺も自分で考えて商売をする
ようになり、中学生の頃にはすっかり金銭的に自立していた。たとえば京大の農学部がある校舎の近くにイチョウ並木があったが、銀杏が実る季節になると、友達と手分けをしながら、ある者は木に登って銀杏を落とし、それを下で拾う者がいて、洗って袋に詰めていく。それを近くの市場やスーパーに持っていって、「これ買(こ)うて」と売りに行く。そうするとこれがけっこう売れるもんで、1袋で100円をもらっていた。
子どもやから、そのうちどんどん調子にも乗る。他所(よそ)でも売れるはずやと
か言いながら、最後は祇園にたどりついた。ある料亭に持っていったら、スーパーに
売るのと同じグラム数なのに、500円で買ってくれる。それを知っていて、料亭を
訪ねようとしたら、たまたま入口のれん越しに若いお姉ちゃんとおっちゃんがいた。
そこで、売れるんちゃうやろか、ピンとひらめいて話しかけたら、「置いていけ」と。
今度はなんと1000円。一緒にいた7人くらいの友達と、ひっくり返って喜んだ。物は同じでも、客が変われば高く売れる。そんなことを肌で感じた思い出となった。
そんなんで、俺は中学生のくせに小金を手に入れる術を覚えた。おふくろには毎朝、
「朝飯いらんで」と言って、友達と喫茶店に集まってモーニング。中学生やのに、シ
ナモントーストで、とか言いながらね。ほかにも手広く商売をしていった。家が京都御所まで自転車でいけるところやった
から、そこにある池にいたカメを網で捕って、ペットショップへ持ち込むということ
もやっていた。確か、1匹200円くらい。池の前には「この池立ち入るべからず」
と立て札を出していて、カメも油断しているんやろう。だからすぐに捕まえられた。
そうして、ズボンの両ポケットにカメを押し込んで歩いていたら、通りがかった警察
官が「お前、タバコ持ってるやろ」と聞いてきたが、ポケットからはカメが出てきた
ということもあった。また、中学生の頃って、思春期やから大人のエッチな本に興味がわく。でも、買う
のはなかなか勇気いるもの。近くの本屋なんかに買いに行ったら、まず「ぼうずにな
んか売るかいな」って店のおっちゃんに言われる。俺はどうかというと、決してひる
まずに「いやあ、おとうちゃんに頼まれて」と言って粘る。そうやってエッチな本を
手に入れていた。それを今度は、学校へ持っていって友達に貸し出す。1日50円やと、5日目からは儲けが出るしくみ。さらに2人目以降はまる儲けになる。教室の一番後ろの右奥にあった点検口を貸出場所にして、何組のだれ、と名前を書かせる貸出ノートまで作って管理した。エッチな本も、どんどん増えるお客さんの数に合わせて買い足す。そのうち点検口は、開けたら本がどっさり、という感じになっていった。
また、女子にはクルミで作った人形を売った。クルミを拾って、中身をくり抜いた
中に鈴を入れて、目玉をはりつけて、耳もつけて。これがまた飛ぶように売れた。どんな人に何を売ったらえんやろかとか、どうしたらもっと売れるんやろかとか、おば
あちゃんやおふくろがやっていたことをそのまま、俺なりに考えてやってたんやと思
う。- 続きを読む
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自叙伝
- 祖母と母の姿で学んだ「客商売」
俺は、京都の下町で生まれ育った。
この地域ではよく見かける、うなぎの寝床のような奥行きの長い家々が壁で仕切られた長屋に、祖父母と両親、2人の叔父、兄、そして私の8人暮らしだった。
おじいちゃんとおばあちゃんは、露天商をしていた。
おやじは工場で働き、おふくろは家の軒先でお好み焼き屋を開いて、皆で懸命に働いて日々を暮らしていた。俺ら兄弟が幼かった頃は、お好み焼きを焼く台の脇に寝かせての仕事だったという。おふくろは、いつも笑顔で
「いらっしゃいませ」
「ありがとう、また来てな」
とお客さんに言葉をかけ、忙しくなってくると遠慮なく、
「皿洗(あろ)て帰ってな」
と平気で口にした。すると、お客さんも
「人づかいが荒いおばちゃんやなあ」
と笑いながら手伝ってくれる。そんなお客さんとのやり取りを、記憶がまだはっきりしないうちから聞き続けられたというのは、ある意味で英才教育みたいなもんやと思う。そうやって俺らは育ててもらった。家の近くには公設市場があって、隣にはスーパーマーケットがあった。
おばあちゃんは、毎朝のように市場とスーパーマーケットの間にある、スキマのようなせまい場所に板箱(はんばこ、合板を貼り合わせてつくった簡易な木箱)を並べて、そこに野菜を置いて売っていた。
俺といえば、学校帰りにランドセルを背負(しょ)ったまま、友達を連れてお小遣いをせびりに行く。おばあちゃんは忙しいから「待っときや。よしみ」と言われるが、その間が手持ち無沙汰で、おばあちゃんとお客さんのやりとりをまたじっと見ていた。今になればよくわかるが、おばあちゃんが露天で出していた店は、市場とスーパーにはさまれた厳しい立地やった。でも、おばあちゃんはデンと座りながら、道を通るお客さんの様子をじーっと見て、ふとした瞬間に声をかける。「お客さん、お忘れものですよ」って。お客さんが驚いて「なにを?」って振り返ったら、ニコッと笑って、売り物として並べた大根を指差し、「大根買うの、忘れてますよ」と。そうなるとお客さんも、あきらめたような笑いを浮かべて「おおばあちゃんには負けたわ」と言いながら、がま口から小銭を取り出す。
そんな光景こそ、俺が見てきた「客商売」やった。
(つづく)
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