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  • 自叙伝
    計画的に現場を離れ、経営に力を注ぐ

    SPCでは、美容室オーナーが技術を中心とする目線から、経営者・組織人として
    会社を運営していくことを大事にしている。経営者として経営に専念するためには、
    ハサミを置き、現場をスタッフに任せていかなくてはならないのだ。

    そして、その分だけ自分は、自分を磨くために時間を使い、働くスタッフに良き影響を与えていく。
    それこそが、店を繁盛させ、永くスタッフを守っていくことにつながる。
    こうしたSPC活動は入会時に聞かされていたが、そうと言っても自分の店は自分で守るしかない。

    だから俺は、計画的に現場を離れることにした。

    はじめの半年は現場にとどまりながら、徐々に抜けることをお客さんへ伝えていった。

    次の半年は土日だけ現場に立つようにし、平日はスタッフや店長に現場を任せた。

    これで、現実的に俺がいない状況が生まれ、具体的な課題が見えてきた。

    そして入会から1年を経て、俺は現場を離れた。

    俺はよく目が見えるし、耳も聞こえる。

    現場にいれば一人ひとりの表情、感情が読み取れる。

    だから相手の考える前についつい指示を出してしまっていた。

    そうなると、自分で物事を考えられない人が育ってしまう。

    単に作業をする人になってしまうのだ。
    そして、俺はエネルギーも高いから、自分をどんどん高いレベルに押し上げる。

    そうなると、スタッフはついていけなくなる。

    それで朝から晩までずっと怒ってしまい、店の営業中に叱りつけてしまうこともあった。

    お客さんから「今村君やめたれ。こいつらがんばってるんやし、そこまでしたんな」と制止されても、

    「いやスタッフ100人にするんやから、こんなんではあかんねん」と言う始末。

    現場は殺気立っていた。そして、なかなかスタッフも定着しなかった。

    それが、SPCに入会後は、俺が現場にいない時間が増えた。

    よく見える目が見えなくなり、聞こえる耳が聞こえなくなる。

    店の中の状況が、まったくわからなくなった。

    それでも、きちんと店が回るようなシステムができないものかと俺は色々考えた。
    ちゃんと朝礼はできているか、DMやリーフレットといった集客につながるアクションが起こせているか、

    店の隅々まで掃除ができているかなど。それらをチェックできるシートをつくることにし、

    細かく項目を列挙しながら、できたかできていないか一つ一つに印をつけられるようにしていった。

    そして、週に1回提出されてくるチェックシートを冷静に見る。

    これだと現場へ行って、目で見て、耳で聞いているわけではないので感情的になることもない。

    なぜこれができないのか、あれができるようになればもっと仕事の精度が上がるのではないか、
    とよりよい仕組みを考えようとするようになっていった。

    現場でコテンパンに怒られることがなくなれば、おのずとスタッフも辞めなくなる。

    8人で頭打ちになってたスタッフの数が確実に増えていくようになった。

    同じくSPCへ入会している経営者には、店がどうにも回らなくなって現場に戻り、

    安定したところでSPCに返ってくるという人もいた。なぜでそうなるのか。

    そういうとき、俺はとことん考え抜く。

    話を聞いたわけではないが、おそらくは自分を守ることしかできないのだろう。

    周囲にゆだねても、うまくいかなければ非難する。

    その、うまくいかないというのは、お金儲けなのかもしれない。

    そういうタイプの人は同じ状況が起これば一生それを繰り返す。それでは人に夢を語ることなどできない。

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  • 自叙伝
    SPC入会で「100人」がより現実的に

    その頃、俺が師匠と仰いでいた同じ滋賀県内で20人ほどのスタッフを率いる経営者の師匠を通じて、

    理美容室オーナーの団体・SPC JAPAN(現・SPCGLOBAL、以下SPC)の存在を知った。

    SPCは理美容業界の経営者が自己研鑽するための組織で、手前味噌だが美容業界の歴史を塗り替えてきた組織だといえる。
    当時はそんなことまで知らなかったが、「新年の決起大会があるので、一度見に来ないか」とお誘いを受けた。

    その日は1995年1月18日。阪神・淡路大震災の翌日だった。

    俺は「ただ師匠に言われて同行している」くらいの気持ちで参加していたが、座っていたのがSPCの重鎮が居並ぶテーブルだった。

    そこでいろいろ聞かれたが、俺はいつも通り、臆することなく自分の考えを語った。

    そんな姿勢を面白がって、話を聞いてくださる先輩もいた。
    会が終わって、俺はゆっくりと露天風呂につかっていた。

    すると、さっきの会に参加していたと思われる人が近寄ってきて、声をかけてきた。

    「キミ、店はどれくらいなの?」と聞かれたので「2軒あって、8人ほどのスタッフでやってます」と答えると、
    「すごいね。がんばってるじゃん」と。俺もいい気分で同じ質問を返したら、

    「僕のところは潰れそうな店ばかりだけど、15軒ほど。スタッフは200人くらいかな」と返してきた。

    これを聞いて俺は「それやったら、俺もスタッフ100人の目標は達成できる」と、心のスイッチが入った。

    そして、俺はすぐさま入会を決めた。

     

    SPCは週に1回、店が営業している水曜日に集まってミーティングをする(地域によって異なる)。

    毎週顔を合わせる人が、100人、150人とスタッフを抱えている現実を前にして、

    「俺にはできない」と諦める経営者も少なくないだろう。

    でも、俺は「俺にもできる」と奮起し、目の前にいる人の言動に触れながら答え合わせをしていった。

    スタッフ8人の経営者という分際で偉そうかも知れないが、俺はスタッフが100人以上の経営者の背中を見るようにした。

    少しでも時間を長く、濃く親交を重ねて、現状の壁を打破するヒントを得ながら、

    スタッフ100人へ近づけていきたいという思いが強かった。だから、食らいついていった。

    経営者の一人に、「どうしてこの人は、そこまで心を読み取れるんやろ」と不思議に思う人がいた。

    SPCの定例会議では、発言する内容や表情を見ながら、的確にフィードバックを行う。

    その人の様子を毎回眺めていると、俺もだんだんと「次はこういう発言をするんやろな」と先が読めるようになってきた。

    それで「あ、ほらほら思った通り、言うてる言うてる」と。

    これは、俺自身が小さい頃から、人の顔色をやたらと見て育ったことも役立っていると思う。

    幼い頃に、他人の顔をじっと見ていて、「人の顔をじろじろ見るな」と叱られた記憶がある。

    そう考えると、もともと人への関心が強いのかも知れない。

    そうやって大きくなってきたから、子どもの時分から大人が何を考えているのかもわかった気になっていたし、

    今も周りにいる人の顔色や雰囲気でなんとなくそれがわかる。

    いや、わかりすぎるから人づきあいがうまくいかないのかもしれない。

    40歳にもなって、おふくろに「あんたもそろそろ大人にならなあかんで」と言われたことがある。

    じゃあ、大人と子どもの違いってなんやねん、大人の定義ってなんや、と考えて、周りにいる人を見回した。

    そして気づいたのが「言ってる、やってる、思ってるの一致」という原理原則だった。

    子どもの多くは、周りに他人がいたとしても、空腹だったら「お腹が空いた」と平気で文句を言い、

    納得がいかなければ駄々をこねる。ところが、大人へと成長していくと、いつしか空気を読むようになる。

    「相手に好かれたい」「自分が損をするようなことはしたくない」との想いから、自分の意思と反していても、

    相手が表面的に察することができる言動は、相手に合わせて変えていく。

    それは協調性という言葉で美化されていて、当然のように言動をコロコロと変える人は多い。
    だが、経営者がスタッフを前にして、言動を変えてしまったらどうなるだろうか。
    懸命に働くスタッフは、不信感を持つに違いない。

    逆に、「言ってる、やってる、思ってる」が一致した姿勢を貫き、自らが努力し、

    宣言した通りの成果を出していく姿に、スタッフは信頼を寄せるだろう。

    リーダーはこれを肝に銘じておくべきだ。
    さらに深く考えていくと、「思ってる」ことについては目に見えるものではない。
    だから、「きっと相手はこう思っているに違いない」というのは独りよがりで、何の根拠もないのだ。

    しかし人は、自分勝手に相手の想いを想像し、言動を変える。悪く言えばごまかしだ。だが、果たしてそれでいいのか。
    俺は自分に正直に、自分らしく生きることが大事だと思っている。

    相手がどうであれ、環境がどうであれ、自分の言動を変えることはない。そして、相手に対しては勇気ある指摘もする。

    だが、俺はこれまでの経験で、同じ言葉を用いて指摘をしても、伝わり方が違うということを知っている。

    その違いとは、相手への想いだ。相手を認めて、本気になって相手のために発した言葉は奥底にある心とともに伝わるものなのだ。

    そして、伝われば相手が変わる。だからこちらも、想いを高めて接していく。

    このくり返しで、自分も相手も高めていくことができる。

    そうした人間関係を、経営者はあらゆる人と構築していかねばならないと俺は考えている。

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    幹部ミーティングが〝英才教育〟に

    プライベートでは、28歳で結婚をし、息子1人と娘2人の5人家族で、温かい時間を過ごせるようになった。

    奥さんは俺がコンテストへ出場している時代からサポートしてくれているから、心から信頼できる。

    それで言いたいことも言えるから、家では息子がもう1人いるような存在なんやと思う。

    奥さんに感謝しているのは、一緒になってスタッフを育ててくれたこと。

    スタッフが4人しかおらんかったときに、そのうちの3人が保護観察中ということがあった。

     

     

    営業中にけんかをすることもあったが、それでも面倒を見続け、毎日弁当をつくってくれた。

    あらゆる物事は、陰に支えてくれる人がいてはじめて成功するもんやなと俺はつくづく思った。

    おやじにも感謝は尽きない。

    おやじは、あれだけ反発して心配をかけたのに、俺を受け入れてくれた。

    そして最期は打ち解けることができたと思う。俺ら兄弟が幼い頃には、休みになればスキーやスケート、キャンプなどに連れていってくれた。

    また、老いた祖父母の面倒見も良く、就寝中に見回ってはそっと布団をかけるという優しさがあった。

    逝去してからも、こんなことがあった。ある時、俺の息子が生後3カ月で脳性髄膜炎になった。

    検査のためとはいえ、髄液を取ることは大人でも痛いらしく、泣きじゃくる姿にはいたたまれない気持ちになった。

    また、医者は後遺症が残ってしまう可能性があると言う。

    俺はコンテストに向けて猛練習のまっただ中やったけど、息子が心配でどうしようもなくなり、ある日の練習終わりにおやじの墓を訪ねた。

    確か、夜中1時くらいやったと思う。

    「なんとかせいや」と俺はおやじの墓に向かって言葉をぶつけ、ビールを置いた。

    それから車がある方へ歩いて戻ろうとすると、ルームランプがぼんやり光って、車内におやじがいるのが見えた。

    遠目だったが、こっちを見てニコッと笑っているのが見え、そして消えた。

    俺は直感的に「ああ、これで息子は助かる」と安心することができた。

    幻やったけど、おやじが助けてくれたんかな。

    恩といえば、兄にも感謝している。

    兄はおやじ譲りのまじめな性格で、銀行に勤めていた。

    俺が店を出すとなった時には、躊躇することなく連帯保証人の欄にサインをしてくれた。

    それも、一度や二度ではない。自分も住んでいた実家まで担保にしてくれて。

    本当に、この恩は一生忘れません。その後、兄は銀行を辞めて、おふくろと一緒にお好み焼き屋を継いだ。

    親孝行してくれて、心から感謝している。

    ほか、おじいちゃん、おばあちゃん、親戚、家族にも感謝している。

    いつも気にかけ、応援してくれたから今がある。そんな恩に報いていくためにも、俺は変わらずに熱く生きていこうと思う。

     

     

    さて、話を元に戻そう。俺はスタッフが少ない頃からガッチリと呼吸を合わせるべく、毎日のようにミーティングを取った。

    店の2階は自宅兼社員寮だったから、皆で食事をする部屋に営業後集まった。そこでは毎晩のように「どうやって100人にするか」を話し合った。

    酒盛りに近い状態で、最後は「100人にするんや」と俺が吠えて解散するというのがいつもの流れだが、毎日続けると想いが伝わり、心身ともにピタッと一致していった。

    奥の部屋では、奥さんと3人の子どもが寝ていた。

    毎晩ワイワイと酒を呑んでいるから、子どもらもよく夜中に目を覚ます。

    そしてトイレに行くとなれば、ミーティングしている横を通ることになる。

    たまに息子が、「お父さん、まだやってるんか」と呆れながら聞いてくる。

    すると俺は「スタッフを100人にする作戦会議や」って答えていた。

    息子が小学校4年生のとき、たまたま学校の連絡帳を見る機会があった。

    そこには頑張って欲しいこととして「宿題をちゃんと出すようにしましょう」と書いてある。

    しゃあないなあ、俺もそうやったし。

    その次の項目に「頑張ったこと」として、「優勝するために、毎朝ドッジボール大会の作戦会議をやっていたこと」と書いてある。

    ああ、俺らがミーティングで作戦会議とか言って、わいわいやっていたことを横で聞いとったんやなこいつ、と。

    ある意味、英才教育やったんやなと思う。だからうちの子どもらおそろしいほど頭が回る方やと思う。

    幼稚園、小学校のときに先生が、「まるで大人と話しているみたいです」と驚かれるほどやったから。

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    技術者から経営者へ。スタッフ100人めざして

    父の逝去後に、実家へ顔を見せる機会があった。

    その時、おふくろが何やらざらばんし(方言、更紙のこと)のチラシをどこかから引っ張り出してきた。

    よく見ると、物件情報が印刷されていて、赤色や青色の鉛筆で印がつけられている。

    「お父さんが元気やった時に、よく印をつけてたんやで。お前に店を持たせるのが夢やったんや」とおふくろ。

    その言葉に、「ありがたいな」と素直に感謝することができた。

    おやじの夢。それを効いた瞬間に、俺は自分の店を持つことを決めた。

    そして、何の根拠もなかったが、どうせやるなら、圧倒的に結束したチームをつくろうと決めて、

    「15年以内にスタッフ100人のチームをつくる」との期限付き目標を設定した。

    これこそ、俺が常々伝えてきた「遠くへ石を投げろ」との言葉の源だ。

     

     

    1988年7月8日。俺は第1号店として「おしゃれサロン イマムラ」の店名で理美容店をオープンさせた。

    スタッフは2人。

    それでも「平成15年7月までに、この店はスタッフ100人にします(原文ママ)」と紙に書いて貼り出した。

    懐かしい思い出やけど、お客さんから「100人って、おまえうそやろ」と言われた。

    それでも「いや、必ずやるんです」と自信を持って返していた。

    店は17坪ほどだったが、バブル景気による影響もあって、

    建物の施工業者があらかじめ決まった条件付きの土地しか買えず、総額は7300万円もかかった。

    その後、91年に有限会社アイムインターナショナル(以下、アイム)を設立した。

    お客さんは、地元で有名な医師や弁護士、会社を経営する社長、敏腕な営業マンなど、

    いろんな職種の方がどこからともなく噂を聞きつけてやってきた。

    そこでカットをしながら熱い想いを語っていると、

    「お前、おもろい男やなあ」「話聞いてたら元気もらったわ。ありがとう」と喜んでくれ、一万円札を置いていくお客さんもいた。

    あるお客様は、物を売る営業マンだが「自分は話し下手で営業に自信がない」とカット中に相談を受けた。

    俺は営業経験などないが、商売は昔から得意だし、感覚が身についている。

    だから、自分が考えていることを口にした。

    この営業マンは、それから数年後に、エリアでトップの営業成績を収めたと聞いている。

    また、目標としていたスタッフの数は、一進一退をくり返していた。

    独立した当時は「成功しないはずはない」「努力していれば、自ずとお客様もスタッフも増えていく」と信じてやまなかった。

    わずか数カ月で、雇い入れた2人のスタッフがともに退職を申し出た。

    先生はいつも、「『経営者も従業員も心ひとつに』って言いますけど、そんなキレイごとを言ってたら笑われますよ」と、捨てゼリフを吐き店を去っていったのだった。
    この時に俺は、他の経営者のもとでの店長の経験か経営者ではまったく通用しないことがわかった。

    俺は、スタッフにすり寄るような姿勢をとったり、別の手法を取り入れたりということはしなかった。

    目の前のことに左右されて、姿勢や考え方をコロコロ変えるのはおかしな話だ。

    この時に自分の考えを変えていたら、現在のアイムはなかったと思う。

    独立から7年を経ても2店舗でスタッフは8人だったが、それでも、「平成15年7月までに、この店はスタッフ100人にします」と掲げた目標を俺は毎日言いつづけた。

     

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    「日本一になったる」と決心(下)

    コンテストは年に5、6回、様々な団体の主催で、行われていた。そのうち理容技術コンテストは都道府県の予選があり、勝ち抜いた代表が全国大会に出場することになっていた。
    俺は様々なコンテストに挑戦したが、最初から7連敗を喫した。だが、以後は8連勝し、全国大会に出場することができた。この全国大会に、両親は旅行を楽しむように、遠方でも駆けつけ、応援してくれた。これまで散々心配をかけてきたが、これで少しばかり親孝行になるのかなと嬉しく思っていた。

     

    コンテスト出場時には、アクシデントに見舞われることもあった。当初は髪の色を明るくしてから、ブリーチをして、色合いを出していくという算段で進めるつもりでいたが、ここで調合を間違えてしまい、髪が真っ黒になってしまったのだ。「もうあかんわ」と諦めの気持ちがつい言葉に出てしまったが、ここで以前からコンテストを共にしてきたカットモデルさんに「今村君、ここまできたらいくだけいこう
    や」と励まされた。そうして気を取り直して、シャンプーをした後に、ヘアアイロンで熱を入れたら、髪の色が飛ぶという幸運が起こった。そして髪は、やや暗めのいい色合いに。これが高評価を得ることになった。

    結果、初の入賞を果たし、先述の7連敗を脱することができたのだった。

     

    俺がコンテストに挑戦しはじめて8年目、まさに開催が直前に迫る頃になって、おふくろから「おやじが胃がんになった」ということを知らされた。振り返ってみれば、以前からどこかしら顔が黒ずんでいることには気づいていた。「これはふつうの病気とちゃうぞ。もしかしたら、もうアカンのんとちゃうか」と悪い予感があったのだ。両親は少し前にがんであることを医師から聞かされていたが、おやじは「大会前やし、心配するから、伝えるな」とおふくろを口止めさせていたようだ。そんな約束を破るくらいだから、いよいよ厳しい時期に突入したのだった。俺はそれ以来、練習時間の合間に病室へ足を運んだ。激しい痛みを抑えるためにモルヒネを投与され、おやじは安らかに眠っていることがほとんどだった。父子の積もる話もあったが、その願いが叶うことはなく、わずか2ヵ月でおやじはこの世を去った。

     

    不謹慎と言われるかも知れないが、実はおやじが死ぬ間際に、コンテストへ出品する作品のシルエットがパッと浮かんだ。俺は「おやじが死ぬかも知らんときに、自分はなんちゅう息子や」と自分を責め立てた。だから、おやじが逝去した時には、今回はコンテストへの出場を取り止めようと考えていたのだ。だが、おふくろはコンテストへ出場するよう背中を押してくれた。おやじの想いを感じていたからだろう。その気持ちに応えて、俺はコンテストに全神経を集中させた。結果、この時は全国7位で入賞となった。
    さらに翌年は、全国で4位となった。この時はコンテストで「仕込み」と呼ばれる前日作業を行っていたときに、わずかにはさみを入れ(髪を切り)過ぎてしまった。

    もう取り返しがつかない。この時のカットモデルは、何年も苦楽を共にしてきた間柄だったが、別のモデルを立てるしかない。このままでは勝てないから俺はひとしきり頭を下げた。そうしてモデルは納得してくれて、別のモデルに衣装まで貸して協力してくれた。結果の陰には、そうしたストーリーがあったのだ。さらに翌年は、パリで開催された世界コンテストへ出場。ここでは「JAPONYoshimiImamura!」との会場アナウンスが流れた。

    せまい日本での勝ち負けに、一喜一憂する必要はない。日本代表として堂々と競技に臨もうと素直に思うことができた。そして、なんと世界2位に輝くことができたのだ。

    年が明けて11年目の挑戦では、すでに気力も尽き、情熱が薄れていた。そして、コンテストは予選で敗退。ついに日本一にはなれなかった。

    技術を磨いて10年。誰かに教わるという環境には恵まれた方ではなかったが、「我流でも、突き通せば自分流になる」ということを、俺は身をもって知ることができた。

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